
熱海郵便局は当初、古屋の敷地内にて開設されました。
現在郵便局は市中に移っておりますが、古屋の歴史を語るひとつでございます。
歴史背景を知れば驚きがいっぱいです
古屋旅館には、数々の歴史が残されています。悠久の歴史に想いを馳せるひとときとをお楽しみください。


古屋の玄関で皆様をお迎えいたします門は、黒澤明監督の映画『影武者』で使用されたもので、古屋旅館のシンボルとなっております。
古屋旅館を200年にわたり守ってまいりました内田家の先祖が武田系列の武士であったとの言い伝えもあり、門上部の武田菱は、武士の心意気の如く、お客さまを精神誠意もてなす私どもの気持ちの表れでございます。

武田門をくぐりますと、大蛇のような格好をした大変珍しい松がございます。大蛇が地を這う形でうねっており、大木ではございませんが大変な年を経ているものでございます。
その昔、天満宮をまもる大きな大蛇がおりました。宝暦の年間にその大蛇が神社に入るところを見たとか。それがいつしかこの松に化身して天満宮をお守りしているとの言い伝えがございます。
大正時代、大層なお金持ちが、お金はいくらでも出すから自分の屋敷に是非譲ってほしいと請願された逸話も残っております。

| 熱海七湯 | |
|---|---|
| 一 | 清左衛門の湯 |
| 二 | 小沢湯 |
| 三 | 風呂の湯 |
| 四 | 河原湯 |
| 五 | 佐治郎の湯 |
| 六 | 野中の湯 |
| 七 | 大湯 |
古屋は、熱海七湯のひとつである『清左衛門の湯』源泉を所有いたしております。
その昔、清左衛門という百姓が馬を走らせていて、この湯壷におちたことからその名がございます。ここのお湯は魔法のように、大きな声で『清左衛門がいない!』と叫ぶと大きく湯が湧いたそうです。
古屋旅館のお風呂は殿方用・ご婦人用ともに、この源泉から湧き出た温泉を、循環せずに使用しております。塩素殺菌を行い、湯を循環させて使用する"まがいもの"の温泉と比べて、湯上りのポカポカ感が全く違うことに気づいていただけるものと自負しております。
頼山陽の再来といわれ、明治―大正―昭和の大文豪といわれた徳富蘇峰先生は熱海を愛し、明治初期より20年間にわたり毎年3~4ヶ月の間古屋にご滞在されました。これはその徳富先生の記念碑でございます。(蘇峰先生の書は一部の宴会場や御部屋でもご覧になれます)
徳富蘇峰について

徳富蘇峰先生は明治十九年、二十四歳で文章報国の志を立て『将来之日本』を著わしましたが、これがベストセラーとなり、一躍文名をあげられました。ついで明治二十年、わが国最初の総合雑誌「国民の友」を発行、世界の新しい政治・経済・法律・思想・文学等を率先紹介し、明治の憲法と平民主義の普及、実現に貢献されました。明治二十三年には国民新聞社を創立し、社長兼主筆として世論をリードされ、さらに毎日新聞社に社賓として迎えられて筆陣を張り、明治・大正・昭和の三代に亘って、先覚ジャーナリストとして活躍されました。
先生は新聞記者であると同時に、偉大な史家であり、政治評論家であり文学の開発にもあずかって力がありました。五十六歳から、九十歳に至る三十五年間、大河の流れるように書き続けられた『近世日本国民史』は全百巻五万頁を越え、個人の修史としては、東西古今に比類をみないものであります。

熱海郵便局は当初、古屋の敷地内にて開設されました。
現在郵便局は市中に移っておりますが、古屋の歴史を語るひとつでございます。


古屋旅館に大変珍しいお墓があります。京都東光寺の僧であった『善祐』のお墓です。 ◆善祐について 平安時代には流刑にも幾つかの段階があり、伊豆や四国はもっとも重い「遠流の地」と定められていました。つまり都から一番離れた遠隔地と考えられていた訳です。 『続日本紀』によると、平安時代・寛平8年(896年)に京都東光寺の僧・善祐が密通の罪で阿多美郷(今の熱海)に遠流となった記録があります。密通の相手は清和天皇の女御で、狂気の帝・陽成天皇の生母藤原高子(下記参照)でした。
※ちなみに歴史文献上、『続日本紀』は熱海(当時は"阿多美"と表記)の名前が出現する最古の文献です。
善祐は熱海市和田浜の辺りに住み、松を植え枝を都の方角に曲げて京都を偲んだそうです。その後和田浜にあった善祐のお墓は古屋旅館敷地内に移され、現在に至っております。平安の時代にまで遡って、思いを巡らせてみるのも楽しいものですね。
藤原高子ふじわらのたかこ (鐘承和九~延喜十(842-910) 通称:二条の后)
仁明朝の名臣と慕われた権中納言長良(ながら)の長女。貞観八年(866)、二十五歳の時、九歳年下の皇太子惟仁親王(清和天王)の女御となり、二年後、第一皇子貞明親王を出産。貞明親王は、貞観十一年、二歳で立太子し、元慶元年(877)、即位(陽成天皇)。これに伴い高子は皇太夫人となり、清和上皇・実兄の摂政基経と共に幼帝を輔佐した。しかし清和上皇の崩御後は基経と対立し、陽成は退位に追い込まれた。光孝天皇が即位し、高子は皇太后となるが、この頃内裏を離れて二条院に移った。
寛平八年(896)、自ら建立した東光寺の座主善祐との密通を理由に皇太后を廃されるが、死後の天慶六年(943)、号を復された。清和天皇が東宮であった頃、在原業平・文屋康秀・素性法師などを召して歌を詠ませている。「伊勢物語」によって流布された業平との恋愛譚は名高い。