大正13年に輸入された日本で一番古いラジオでございます。当時日本に5台が輸入され、天皇家、逓信大臣犬養毅、三井物産本社、三井本家、そして古屋旅館に各一台づつ納入されました。わざわざ遠方よりこのラジオを聴くために多くの人々が古屋旅館を訪れたとのことです。5台のうち、現存するのはこれのみでございます。
謎の絵師、写楽は寛政6年(1794)5月から翌年1月までの僅か9ヶ月間に145点の作品を出し、その後、忽然と姿を消しています。版元はすべて蔦屋重三郎になっています。
その役者大首絵は歌舞伎俳優を戯画的に表現したもので、当時の人々には歓迎されなかったようです。むしろ、海外での評価が高く、浮世絵師の中で特異な存在です。


弘化4年(1847)12月22日~昭和9(1934)年5月30日。明治・大正期の海軍軍人で鹿児島生まれ。鹿児島藩の海軍に入り戊辰戦争に出陣しました。
明治4年から11年までイギリスに留学しており、日清戦争では浪速艦長として出征。清国兵を満載したイギリスの輸送船を撃沈し黄海海戦にも加わりました。29年海大校長、36年第一艦隊兼連合艦隊長官、37年大将となり、日露戦争では38年5月、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃沈しました。のち海軍司令部長、大正2年には元帥となります。

東郷元帥は古屋旅館を熱海の常宿としておりました。特に古屋旅館14代内田勇次と親交が深く、元帥の手紙や書が数多く残っております。ショーケースの中の写真は元帥と14代の囲碁戦の風景でございます。

1907年、清国の第14王女として生まれた彼女は、父と親交のあった日本人川島浪速の養女となります。日本では奔放な少女時代を送っていましたが、養父は自分の立場も忘れ、この美しい少女に手を伸ばしてしまったといいます。彼女が女の命の髪を切り男として生きはじめたのはそれからです。結婚にも敗れた芳子は、やがて上海でダンサーとなり、スパイ活動を始めます。
満州においては軍総司令官として活躍した芳子、この男装の麗人は東洋のマタ・ハリとも、東洋のジャンヌ・ダルクとも呼ばれ、もてはやされるようになります。ただ、有名なスパイは役には立たないのです。初めは芳子を利用していた日本軍は、だんだんとこの芳子の存在を疎ましく思うようになりました。結果として日本はこの満州建国に尽くした細身の女性を利用し、裏切り、見捨てるのです。
日本の敗戦後、彼女は中国側に逮捕されます。中国からしてみれば、中国人でありながら日本軍に味方した彼女は国家の逆賊。反逆罪を犯した者として、処刑の判決を言い渡します。「私は日本人の養女となっているから、日本人であり、反逆罪には当たらない。」そんな彼女の主張も、悲しい結果になってしまいました。
1948年、彼女は銃殺刑になりました。(上記の詩は処刑時彼女が所持していた紙に書かれていたもの。)その当時、彼女の死を信じられない人々が多く、実は彼女は本当は身代わりを立てて生き延びている、との風説が飛び交ったようです。今は、彼女のお墓は日本の松本市にあり、養父と並んで眠っています。
なぜ川島女史が当館に度々おいでになったかは、いまとなっては定かではございませんが、もしかしたら軍上層部を連れてまさに"スパイ活動"の一端を行っていたのかもしれません。歴史を感じる品でございます。